ISSミッション

   一、暗い洞穴に潜む

俺は真っ暗闇のなかで息をころして外の様子をうかがっていた。

最初ゆっくりだった振動のようなものは、いつしか規則的に寄せては返す波の動きに変わっていた。

「もうすぐだ。もうすぐ、次の波がやってくる」

誰かが叫んだ。

「こわいよ。こわい。俺はここに残る」

と俺はいった。俺は無性にこわかった。

「大丈夫。大丈夫だ。お前はきっとうまくやれる。次の波に乗るんだ。うまく乗るんだ」

暗闇のなかで誰かの声が響いた。

「イヤだ。俺はまだここに残る」

俺はどこにも行きたくはなかった。俺は背中を丸めて両手で両足をしっかりとかかえ込んだ。

「ダメだ。お前はここにいてはいけない。ここから出ていくんだ。それは、いまだ」

大きな声が聞こえた。

「イヤだ。俺はどこにもいかない。俺はここに残る」

「お前はここに残ることはできない」

「さあ、いくんだ」鋭い声がして俺の背中は誰かに突き飛ばされた。不意打ちをくらった俺のからだは一瞬反り返ったが、すぐに体勢を整えて背中を丸めてゴム毬のように波の間を転がった。

俺はまだどこにもいきたくはなかった。俺はあの洞窟のなかに残りたかったのだ。しかし、俺の声はどこにも行き場のないまま波に飲み込まれてしまった。

意志に反して俺のからだは敏捷に動いた。両手で両足をかかえた体勢のなかに器用に頭を沈めた。それはまるで誰かにプログラミングされたかのようだった。そこに俺の意志など入り込む余地は微塵もなかったのだ。

やがて、波の流れがとまった。

俺は波から押しだされた。波の流れはうしろに去っていた。俺は呆然とした。息が苦しい。息ができない。俺は声にならない声をあげて思い切り息を吸い込んだ。その途端に呼吸のスイッチが切り替わったようだった。俺は声を上げて息を吐いた。胸からはゼイゼイと息が押し出されてくる。と、同時に俺の目があいた。なぜそう思ったのかって、それはいままで感じたこともない光が俺のまわりに集まってきたからだ。俺は真っ暗闇の洞窟のなかで息をひそめてじっとしていたんだ。光など感じたこともなかった。それなのにいまは光のなかにいる。光を感じることができる。いや、感じるというよりは光がそこにあるというほうが正しいだろう。

俺はもう、わけがわからず叫び声を上げながら両手を伸ばした。両手はぶっ格好に空(くう)をつかみ、開いた指は驚いたようにビクッと反射した。両足はひざから折れ曲がり外から見たら歪曲しているように見えただろう。外から見えるだって、誰が外から見るというのか。俺は苦笑して力いっぱいひざを伸ばしてみた。

   二、いのちの大爆発

気がついたら俺は海のなかにいた。

俺のまわりにはおびただしい数の生きものがいた。

俺は巨大な鎧(よろい)でおおわれていた。俺は大きなからだを満たすためにあらゆるものを口にした。小さなものから大きなものまで口にはいるものならなんでも飲み込んだ。あるときは俺と同じくらい巨大なヌルヌルしたものと戦って勝った。口にいれた。ヤツは少ししょっぱかった。しかしそんなことを考えるいとまもなく俺は次の獲物を狩った。

巨大な貝殻でおおわれたヤツを喰うのは少し勇気が必要だった。俺は何度か失敗をしたが次第にヤツの貝殻に俺のするどい牙を突き当てることを学んだ。俺の牙でヤツは動けなくなることがわかったのだ。こうなるともはや海のなかで俺の牙にかなうものはいなくなった。俺は海のなかだけではなく、海の底でじっとしているヤツらを見つけては、俺の自慢の牙を使った。ヤツらの硬い殻に牙を突き立て、からだをほじくり出してむさぼり喰った。俺の牙にかかったヤツらはスローモーションのようにさらに深く海の底に沈んでいった。そしてヤツらはやがて海の底の砂に静かに埋もれていった。どれくらいヤツらを喰っただろうか。ヤツらはうまかった。

海のなかにはあらゆる生き物がひしめいていた。生きものたちはからだの構造を変えながら変化(進化? というのだろうか)していた。俺も進化しているのか。そんなことを考えながら、俺は相変わらず海のなかの生きものを喰った。海の底から海の上までのすべてが俺の狩場だった。あらゆる生きものが俺の餌食となった。

どれくらいのときがたったのだろうか。

俺は気づいていた。海の上には海のなかとは違う世界があることに。

俺は、海のなかにいることに飽きていたんだと思う。

俺は海の底にいるときよりも海の上にいることのほうが多くなった。

俺はいつしか海の上ばかりを見ていた。

そんなときだ。またあの声が聞こえてきたのは。

「お前はここにいてはいけない」

「出ていくのだ」

以前にも聞いた声だった。

俺はその声をまっていたのかも知れない。

俺はすでに準備が整っていることを感じた。

俺は海の上に出て思い切り泳いだ。俺は泳ぐことが好きだった。泳いでいればこれからの不安やいままでのイヤなことを忘れることができた。泳ぐことは俺のすべてだった。こうして俺は何日も何日も泳いだ。

そして泳ぎ疲れたときだ。何かが俺のヒレに当たった。

「ウ、何だ新たな獲物か。やるのか、お前、俺のヒレに当たるとはいい度胸じゃないか。いますぐお前を喰ってしまうぞ。俺は海のなかでは最強の生きものなんだからな」

と俺は声に出して叫んだ。

俺はソイツのからだに乗り上げた。

ソイツのからだは平ベタかった。

俺はソイツを喰おうとした。しかしソイツは。

ソイツは俺の獲物ではないことがわかった。ソイツはそこにいた。いたというか、あったというか、そこに存在していたのだ。俺は俺の巨大なヒレと自慢の尾を使ってソイツの上に乗ってみた。ソイツは俺のからだを丸ごと受け止める存在だった。俺はソイツの上で俺のヒレを思い切り動かしてみた。俺のヒレがソイツの上で動いた。俺はソイツの上を進んでみた。

俺は、俺のからだが確実に変化(進化)していることに気づいた。俺はソイツの上を自由に動くことができたのだ。俺のヒレは驚いたことに足になっていた。俺はソイツの上で息を吸ってみた、エラから肺に呼吸のスイッチが変わった。目をあけてみた、目をあけることができた。俺は海のなかではぼんやりとしか見えていなかったことに呆然とした。ソイツの上には明るい光があった。俺はソイツの上からもっと先の上のほうを見た。まぶしくて目を細めながらも何度も何度も見た。俺の目が光に慣れてきたころソイツの上に植物を発見した。俺はそれも喰った。俺の口にはいるものならなんでも喰った。

俺はソイツの上をもっともっと歩いた。どこまでも歩いた。海のなかでよく目にした生きものに似たヤツらもいた。俺はヤツらを狩って喰った。俺より巨大な生きものがまるで海のなかにいるように自由に空を飛んでいるのを見たこともあった。俺はいつまでも飽きずに空を見上げた。

どれくらいのときがたったのだろうか。

寒さで凍えたときもあった。海のなかの俺の仲間たちの多くが滅んだときもあった。空から大きな石が落ちてきたときもあった。その石のせいでは俺もひどい目にあった。俺より大きな生き物たちはその石がもたらした厄災で滅んだ。俺はからだを小さく、小さくして縮めるようにして生き延びた。

    三、進化

俺は木の上から見ていた。

仲間がひとり猛獣に襲われて喰われるところを。

続けてまたひとり、ひとりと、仲間が喰われた。

俺たちは、木の上で暮らしていた。

木の上なら獰猛な猛獣に襲われる心配はなかったからだ。

だが、木の上ではこの先、生き延びることはできないことを、俺たちはみんな感じていた。だから、ひとり、またひとりと木の上から降りて危険な草原に飛び出していったのだ。でも、ひとりではダメだ。獰猛なヤツらにひとりでは立ち向かえない。そんなことぐらい俺たちはとうの昔に知っていた。猛獣は俺たちよりも足が速い。獰猛な牙をもっている。その足と牙で俺たちはひとりずつ次々に喰われていった。俺たちは仲間がまたひとり、またひとりと喰われていくのを木の上から見ていることしかできなかった。

そんなときだ。またあの声が聞こえた。

「いまだ、木の上から下に降りるのだ」

イヤだ。俺はイヤだ。猛獣に喰われていく仲間を見ながら俺はイヤだと叫んた。木の上から下に降りたとしてもあの猛獣に追いつかれて抑えられて牙で切り裂かれて喰われるだけだ。

「そうではない、お前たちは木の上からいますぐにみんなで降りて仲間で戦うのだ」とあの声がいった。

イヤだ、イヤだ。俺は耳をふさいだ。仲間たちも耳をふさいで木の上でうずくまっている。

それからどれくらいの時間がたったのだろうか。

あたりは暗闇に閉ざされていた。そんなときだ。仲間がひとり、またひとりと木の上から降りて草原に出ていった。

「さあ、お前も下に降りるのだ」あの声がいった。

仲間の様子を見ながら俺も恐る恐る木の上から下に降りてみた。草原には食べものがあった。俺は仲間を見習ってそれをたらふく食べた。そしてそれをつかんで俺は家族(?)のもとに運んだ。俺は、いつのまにか二つの足で歩いていた。自由になった手は、いままでよりもたくさんの食べものを抱えることができた。俺は両手にいっぱい食べものをもって家族に運んだ。二足歩行で変わったことは、いままでひとりぼっちで生きてきた俺に仲間と家族ができたことだった。まわりを見渡してみた。仲間には俺と同じように家族がいた。俺は仲間と家族を見ているだけで幸せだった。俺の家族には小さな子どもがひとりと身重の妻がいた。俺はそんな家族に食べ物をもって帰るのが好きだった。

木の上から草原に降りた俺たちはやがて群れで暮らした。群れていれば猛獣に襲われないことを長い時間と多くの仲間の犠牲の上で勝ち取っていた。動物の骨や硬い石で俺たちは武器を作った。火も使うことができるようになった。なによりも素晴らしかったのは、仲間で協力して武器を使って動物を狩り、火で焼いて分かち合って食べることができたことだ。

俺たちは、何時間もかけて集団で動物を追い詰めていった。それは何日もかかることさえあった。でも俺たちは決してあきらめることはしなかった。動物は俺たちより足が速かったし、獰猛な牙をもっていたが、俺たちは仲間で動物の足跡を追って狩りをした。ヤツらが疲れて立ち止まったり、水場で水を飲んだりするところまで執拗に追いかけて、奴らを狩った。その狩りのやりかたは俺たちのからだに刻み込まれていった、快感として。

俺たちはヤツらの肉と骨を俺たちの住処(驚いたことに俺たちは猛獣に襲われないような住処を手にいれていた。まあ住処といってもそのほとんどは洞窟だったが)にもって帰って分け合って食べた。狩りにいかないものたちは木の実や植物、川、水辺の魚、貝などを採集してそれを保存して食べた。

俺は仲間の誰よりも走るのが速かった。誰よりも遠くまで長く速く走ることができた。俺は走るのが好きだった。草原を風を切って走っていると、なぜか海のなかで自由に泳ぎ回っていたときのことを思い出した。俺は何時間も何時間も1日中だって走り続けることができた。獲物を一番に見つけては仲間に報告した。仲間から称賛をあびることが俺の生きがいになった。

俺が走るのが得意だったように、あるヤツは草原の彼方までよく見通せる目をもっていた。嵐の来るのを予言したり、絵を描くことが上手だったり(実際見事な画を彼は洞窟に残した)、火を熾すのがバツグンに速かったり、獲物を捌くのがうまかったりと、それぞれの得意なもので仲間からリスペクトされた。

またどれくらいのときがたったのだろうか。

あるとき、俺たちは集団で洞窟をあとにした。俺たちに食べものを与えてくれていた草原が砂でおおわれ砂漠化したからだ。俺たちには少しの迷いもなかった。多くの仲間の存在が俺たちに勇気を与えてくれたからだ。砂の大地をあとにした俺たちは新しい食べもののある土地を目指して集団で歩いた。

俺も俺の家族をともなって集団に遅れないように歩いた。泥土に足を取れらながらも慎重に歩いた。俺のすぐうしろには小さい子どもが、そのうしろにはお腹に次の子どもを宿した妻が続いた。俺はうしろを振り向き振り向き、気遣いながら歩いた(このときの俺たちの足跡が数年のときを隔てて、いや数万年のときを経て博物館に展示されることになろうとは想像さえできなかったが)。

新天地にたどりついた俺たちは、そこで異様な一族を目にすることになる。彼らは俺たちに似ているのだが、どこかが少しずつだが違っていた。肌の色、髪の毛、目の色が違っていた。身長も俺たちより小さい、が、頭は俺たちより大きい。俺たちは彼らに近づきすぎないように暮らした。彼らも俺たちに気がついていたようだが、決して近づいてはこなかった。

あるとき、彼らの子どもが俺たちの村の近くでひとりポツンと泣いていた。親が死んだのか、はぐれたのか、迷ってここまできてしまったのか。俺たちはその子どもを村で育てることにした。俺たちの村にもいろいろな事情でひとりになった子どもがいた。そんな子どもは村の子どもとして大事に育てた。だから独りぼっちになった肌の色の違う彼らの子どもも育てるのが当たり前だと思ったからだ。

子どもだけではない。村には狩りでケガを負ってしまった、かつての勇敢な狩人(いまや老人だが)や、経験と知恵で未来を占う老シャーマンなどがいた。俺たちはそんな老人を村の長老として敬いながら一緒に暮らした。 

肌の色が違う彼らの子どもも俺たちの村ですくすくと成長して、やがて村の若者と結ばれた。ふたりの間には新たな生命が育まれていった。

しかし、その異様な彼らの一族はあるときを境に忽然と姿を消した。俺たちは彼らを探したが、彼らの姿はどこにもなかった。すべての人がいなくなったのだ。一族の人がすべてだ。いったい彼らに何があったというのか。彼らは絶滅したのか。彼らの一族と俺たちの仲間の生死を分けたのはいったいなんだったのか。なにが決定的に違っていたのか。俺はそれを考え続けることになる。

    四、ⅠSSミッション

「はい、こちら国際宇宙ステーション」

「ただいま、ミッション完了いたしました」

「これから、地球に帰還いたします」

気がつくと俺は居住可能な人工衛星、国際宇宙ステーション(ⅠSS)のなかにいた。

どうやら宇宙での俺の秘密の任務は無事に終わったようだ。やれやれ長い任務だったがこれでようやく地球に戻れる。俺は少しホッとして歌でも歌いだしたくなった。

「歌だって?」

「歌なんかお前は覚えていたのか」

え? 俺はうしろを振り返ってみた。ふと聞き覚えのある声が聞こえたような気がしたからだ。しかしこのⅠSS内はおろか、窓の外(宇宙だが)にも誰も写ってはいなかった。俺の顔だけがひとつポツンと暗黒の窓に浮かび上がっているだけだ。

「お前はいまひとりなのか」

「お前には仲間がいたはずだが」

仲間? 俺の仲間だって? 仲間なんかとうの昔に姿を消している。そんなこと、お前にはわかりきっていることだろう。こんなときにそんなことを俺に聞いてくるなよ。

俺は気を取りなおして地球への帰還の準備にはいった。といってもⅠSSにドッキングしているスペースシャトル「アルテミス号」に乗り移って操縦席に座り操縦桿を握っただけだ。いま俺は機長と操縦士を兼ねている。しかし俺は何もしなくてもよいのだ。なぜなら飛行のすべてはこの有人(ひとりだが)宇宙船アルテミス号にプログラミングされているからだ。俺は座っているだけでよかった。宇宙船が勝手に俺を地球に運んでくれるのだから。

アルテミス号で地球を出発したときは、俺の仲間(クルー)は7人いた。いま帰還する宇宙船に乗っているのは俺だけだ。もしあのとき〇〇だったならば、と宇宙空間に似つかわしくなく俺は性懲りもなくウジウジと「たら、れば」を考えていた(船外活動のときに宇宙の隕石がクルーに命中しなければよかったのだ、とか、そのときにもう少し俺の手が長く伸びていたならば、2人のクルーを失うこともなかったのに)などと、もう戻れない過去を反芻するように俺は暗黒の宇宙のなかで独り言をいった(まさしくこれは独り言だ)。でも、それはその後の悲劇の予兆でしかなかった。残った4人もまたISS内で次々と倒れていった。正確には俺を含めた5人が倒れたのだが。俺はクルーが倒れていくのをただ茫然と見つめているしかなかった。

最初ISS内に不穏な動きがあったのは、操縦士だった。顔を赤くして何やら大声でわめきちらしたかと思う間もなく高熱にうなされてベッドから起き上がることもできずにそのまま死んだ。次に操縦士を献身的に看病していた医師のクルーが同じ症状で苦しみだした。同時に、地球の管制官から非常事態を知らせるブザーがISS内に響き渡った。残った俺たちはISS内の赤いランプの点滅で危険度がマックスに達していることを知った。そしてISS内の医師から意外な事実を告げられた。「百年に一度あるかないかも知れないウイルスにこのISS内が侵されている」と。そう告げると医師が死んだ。続いてもうひとりのクルーが同じ症状で死んだ。高熱で苦しみながらも気丈に俺を励ましてくれていた機長も死んだ。機長は俺よりも重篤な症状だったのに俺を励まし続けたのだ。こんなことがあっていいのか、俺はそう思った。機長は俺にテレパシーを使って「管制官に気をつけろ」といってきた。「えっ」俺もテレパシーを使って問うた。そのころでは俺たちクルーはテレパシーが使えるようになっていた。宇宙空間では地球の常識を簡単に覆すことができる能力が備わるのだ。クルーの間のテレパシーもその能力のうちのひとつだった。管制官に悟られないように俺たちは大事なことはテレパシーで伝えるようにしていた。機長は「管制官は怪しい」とテレパシーで伝えてきた。「ウイルスは管制官がISS内に忍び込ませていたにちがいない。管制官は俺たちクルーを未知のウイルスのモルモットにしたかったんだ」と。そう伝えると機長は死んだ。

俺は高熱で途切れそうになる意識と戦いながら機長のテレパシーをベッドのなかで聞いた。俺のなかにも管制官が放ったというウイルスが確実に入ってきていた。俺は問うた。「なぜ管制官が俺たちに未知のウイルスを放すのか」。

……俺は、あるときは深海のなかの生物だった。あるときはヒレが進化した足で陸に上陸を果たしていた。森のなかの樹上で仲間たちが次々に猛獣に喰われるのを見ているときもあった。木の上から草原に降りて仲間たちを喰った猛獣を狩って仲間の無念を晴らしたときもあった。あるとき、俺は二足歩行をしていた。俺に家族ができたときもあった。家族と仲間とともに新しい世界を目指して一歩を踏み出したときもあった。あるときは俺たちとは別の集団がひとり残らず絶滅するのを見ていた……。

そんな世界を俺は確かに体験した。決して夢ではなかった、と思う。

俺はISSのなかで目覚めた。俺はどれくらい眠っていたのだろうか。

「40億年だ」と俺の耳元で謎の声が聞こえた。

声は続いた。

……「138億年前に宇宙が生まれた。

46億年前に太陽系が、続いて地球が誕生した。

海の誕生は約40億年前(~38億年前)ごろだと考えられている。高温でドロドロの地球の表面は何億年という長い年月をかけて冷え、やがて海になった。海は宇宙からの惑星(数キロメートルほどもある)に頻繁に衝突されてその都度蒸発するを繰り返しながら存在した(これはアメリカ航空宇宙局(NASA)のアポロ計画で月からもち帰った岩石の分析の結果による)。

海のなかに生命が誕生したのは約40億年前(~38億年前)ごろ。地球での最初の生命は海のなかで生まれたらしい(らしいというのは生命の誕生は人類最大の謎のひとつだからだ)。熱水の吹き出す深海底で生命は生まれ得ると、ある実験結果は導き出している。最初の生命は細胞ひとつの単純な姿をしていた。生物が多くの細胞を手にいれるのはそれから10億年以上が必要だった。

地球誕生からいままでの時間を1年にたとえてみる。1月1日午前0時地球誕生。12月31日23時26分にホモ・サピエンス(現生人類)が誕生した。その33分後の59分30秒にようやく現代社会がはじまる。現代社会はこの宇宙空間のなかではただの30秒間の物語でしかない。そんな30秒間の刹那の時間のなかでお前たち人類は生き延びるのにもがいているのだ。

人類という『種』には100万年(~1000万年)ほどの寿命があるといわれている。その寿命が尽きる前に、お前たち人類は、愚かな指導者による核戦争、人工知能搭載のロボットによる誤作動や反乱、未知の感染症によるパンデミックや気候変動などで、滅びる可能性もゼロではない。

まあいい。しかしこれからが本題だ。宇宙のなかで地球はやがて巨大化した太陽に飲み込まれて蒸発していくのだろう。地球の運命は太陽と連動するように最初からプログラミングされているからだ。」……。

「もうやめろ。もういい。俺が聞きたいのはそんな気が遠くなるような過去と未来の話なんかではない。いま、このいまの現状が知りたいんだ」

俺は謎の声を遮って、管制官に聞いた。

「俺は未知のウイルスに打ち勝ったというのか。なぜ俺だけが生き延びたのだ。お前たちはなぜISS内にウイルスなんかを放ったのだ。そのわけを教えてくれ」

そして俺は体験した(40億年かけて生きてきたことを、夢なんかでは絶対ない)これらのことを、管制官に話した。管制塔のスタッフは互いに目配りをして、みんな一様に困った顔をした。そして俺をあわれむように見つめた。管制官は俺のこれらの体験を「夢」だと片付けて未知のウイルスの収束を告げた。そして「お前のミッションは完了した。直ちに地球に帰還するように」と命令を発した。俺の問いに管制官は答えることすらしなかった。俺はひとまず管制官の命令に従うふりをして地球に帰還することにした。

「いいか、覚えていろよ。ISS内で起こった不審なすべてのことは地球のマスコミに洗いざらい暴いてやるからな」。

このアルテミス号は90分で地球を一周するようにプログラミングされている。俺は、操縦席から地球を見つめた。が、なにか違和感をもった。なにかが少しずつだが違っている。俺が見慣れた地球はそこにはなかった。俺は太陽の光をさがした。が、太陽の姿も少しヘンだ。光が弱くひとまわり小さくなったような。この俺が見間違えるはずはない。俺はいつもISS内から地球を、そして太陽を見続けていたのだから。

「ちょっ、ちょっとまってくれ。なにかがヘンだ。そこは本当に地球なのか。俺が帰るべきは本当の地球なんだろうな」

俺は管制官に聞いた。しかし、管制塔からの返答は俺には届いてこなかった。

完璧にプログラミングされているアルテミス号は、地球(おいおいそこはどこの星なのだ)に突入するタイミングを見定めていた。俺は「この宇宙空間ではどんな事態も起こり得るのだ」と自虐し、ついに観念した。

かつて詩人の宇宙飛行士は地球への帰還時に地球の美しさにみとれてしまい一瞬大気圏に突入するタイミングが遅れたという。しかしこのアルテミス号にそんなミスは決しておこらない。すべては完璧なプログラミングによって管理されているからだ。アルテミス号は地球(?)に到着すると水平に滑空して海を見つける。俺はそのタイミングを見計らって海にパラシュートで降下する。イヤ海へ降下するのでさえも俺の考える余地はゼロだ。すべてはプログラミングどおりにことは運ぶのだ。

「さあ、いまだ」

「海に飛び込め」

あの声が聞こえた気がした。

俺は迷わずに海に飛び込んだ。

あの声が今度ははっきりと聞こえた。

「いまだ、いまだ。さあ新しい世界に飛びだすんだ」

俺はその声のするほうへ、光のほうに迷わずにまっすぐに進んだ。

地球上に生命が誕生してから、ホモ・サピエンスが出現するまでの壮大なロマンともいえる進化の歴史を俺は海のなかで、ものすごいスピードで駆け抜けた。

40億年という進化からつくりあげられ精密にプログラミングされた順番にしたがって、俺は頭の骨をすぼめ、頭を回転させて、肺の水を捨て、回路を次々に開いて、外に出た。

「あなた、うまれた、うまれたわ」

「ああ、俺たちに似た、可愛い赤ちゃんだ」

俺は、俺は、俺は、40億年も旅してきたんだぜ。俺は、俺は、俺は、宇宙にもいったことがあるんだぜ……。俺は、俺は、俺は……。言葉にならない声を発した。

「おぎゃー」

(了)

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